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2013
10.26

細い一筋の伝統

Category: 未分類
二三三 まなぶ

許六離別の辞
去年(こぞ)の秋,かりそめに面(おもて)を合はせ、今年五月の初、深切(しんせつ)に別れを惜しむ。その別れに臨みて、一日(ひとひ)草扉(さふひ)をたたいて、終日(ひねもす)閑談をなす。その器(うつはもの)、画を好む。風雅を愛す。予、試みに問ふこと有り。「画は何のために好むや」、「風雅のために好む」と言へり。「風雅は何のために愛すや」、「画のために愛す」と言へり。その学ぶこと二つにして、用いること一(いつ)なり。まことや、「君子は多能を恥づ」といへれば、品(しな)二つにして用一(いつ)なること、可感(かんずべき)にや。画はとって予が師と、風雅は教へて予が弟子となす。されども、師が画は精神徹に入り、筆端妙をふるふ。その幽遠なるところ、予が見るところにあらず。予が風雅は、夏炉冬扇のごとし。衆に逆(さか)ひて、用ゐるところなし。ただ,釈阿(しゃくあ)・西行の言葉のみ、かりそめに言ひ散らされしあだなる戯(たはぶ)れごとも,あはれなる所多し。後鳥羽上皇の書かせたまひしものにも、「これらは歌に実(まこと)ありて、しかも悲しびを添ふる」と、宣(のたま)ひ侍(はべ)りしとかや。されば,この御言葉(みことば)を力として,その細き一筋をたどり失ふことなかれ.なほ,「古人の跡を求めず、古人の求めしところを求めよ」と、南山大師の筆の道にも見えたり。「風雅もまたこれに同じ」と言ひて、燈(ともしび)をかかげて、柴門(さいもん)の外に送りて別るるのみ。
元禄六孟夏末                                       
風羅坊芭蕉 

(訳)
許六との別れに添えて
許六とは去年の秋に、ほんの偶然の縁で会うことができたのだが、今年の五月の初めにはしみじみと別れを惜しむ間柄となった。その別れが迫ったある日、君はわが草庵を訪れて一日中のんびりと話あった。許六は絵を描くことを好み、俳諧を愛す。私は試しに尋ねたことがある。「絵は何のために好むか」と。すると許六は「俳諧のために好む」と答えた。「俳諧は何のために愛するのか」と問うと、「絵のために愛する」と言う。学ぶことは二つでありながら、その働きの帰するところは一つなのである。「君子は多能であることを恥じる」と古人が言っていることは真理なのだ。学ぶところが二種類あり、その学びの帰するところが一つなのは、感服すべきことではないだろうか。君は画においては私の師であり、俳諧においては私が教える弟子である。けれども師の画は精神が微細な点にまで行きわたり、筆の運びは絶妙である。その幽かで遠い境地は、私の鑑賞眼では理解することができない。それに比べて私の俳諧などは、夏の炉、冬の扇のようなもので、多くの人々のこのみに逆らっていて、何の役に立たないものである。ただ俊成や西行の歌だけは、ほんの即興的にいい捨てられたはかない戯れの歌も、感銘すべきところが多い。後鳥羽上皇がお書きになったものにも「これらの歌には真心がこもっていて、しかも悲しみを添えている」とおっしゃっていたとか。なので、このお言葉を力と頼み、俊成や西行以来脈々と伝わるその細い一筋の伝統を、けっして見失ってはならない。なおまた、「古人の残したものを模倣しようと求めるのではなく、古人が理想として求めたところのものを求めよ」と弘法大師の書の教えにも見えている。「俳諧の道もまたこれと同じ」と言って灯をかかげて、柴の戸の外まで送り、この言葉を餞別として別れを告げるのみである。
元禄六年晩夏
松尾芭蕉

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2013
09.18

踊りにいかない踊り

Category: 未分類
二三二 自然とは

「スター☆ドラフト会議 第5回最強ダンススター GP2時間スペシャル」で審査委員長を務めたSAMのコメントが素晴らしかった。一位になった組に対して…
「踊りにいっていない…  踊らされてもいない… 」
その踊りがこれ。
踊りにいっていない踊り
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2013
08.09

鋼鉄の観念

Category: 未分類
二三一 変わらないことを知るべし

世界水泳での実況が、とても考えさせられた。観念とはこうも堅くて見えないものである。解説者は優勝するであろう選手にばかり目が行って、もう一人の選手には最後の最後のまた最後になるまで、気が行かなかった。勝つことを考えつかなかった。恐るべし、先入観。

http://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=bWwqkUog9PA
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2013
07.02

昔々、まだ学校で体罰が無かったころ

Category: 未分類
二三〇 知っている昔、知らない昔

「日本の児童は、ほとんど野放しであり、したい放題で、遊びたわむれる。小学校に入学すると、同窓たちの大勢と笑ったり飛びはねたりする。単なる慰安の集まりと思われる。仲よくデモクラシーの印象深い場面を提供する。海軍将軍の子、陸軍将軍の子、代議士の子、判事の子、資本家の金持ちの子が、もっとも身分の低い職人の子と遊びたわむれる。
 教師はおどかさない。教師からどなりつけられるとか、体罰とかをうけない。教師は児童の愛らしい感情にとらえられて、ともに遊びたわむれとともに笑う。いわば兄のようなものに過ぎない。しつけの問題には教師はほとんど身を入れない」
1925年(大正12)に徳島で書き上げられ、翌年ポルトガルで出版されたモラエスの風土記「日本精神」の一節である。モラエスはポルトガルの海軍として徳島に常駐し、日本文化のあまりの美しさに、移住を決心した。


体罰問題の話になると「昔は先生に殴られるのは当たり前だった。今の子供たちは甘い」という声をよく聞く。その人たちの「昔」とは、自分たちの小さかった頃の話である。戦後のことである。戦時中の空気がまだ教室にも残っていた時代である。その人たちは、そのまた「昔」のことを何も知らないで、「昔」を語っている。自分が体験していない、記憶に無い、昔のこと。
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2013
06.19

氣のゆくえ

Category: 未分類
二二九 ゆかし

山路来て何やらゆかしすみれ草     芭蕉(野ざらし紀行)

「ゆかし」という古語が、氣になっていた。何となくはわかる。はっきりとは分からない。
辞書で調べてみた。

【ゆかし】(古語)
動詞「行く」の形容詞化した語。 そちらの方へ行ってみたくなるほど興味をひかれる、 というのが意。 派生して「見たい」「知りたい」から 「恋しい」「なつかしい」まで。心ひかれて、 その対象と強くかかわりたい様を表す。 現在は「ゆかしい」と変化。

ゆかしという言葉は、本来、興味ある方向へ赴く、という行為の裏にある、赴きたい、という欲求を表わす。つまり、行動と欲求の分離。そして、行動できない環境があって、欲求の方がどんどん膨らんでいく状態のことを、ゆかし、で表わした。
奥ゆかし。氣がそっちの方向へ進む。意識上では、何となく、身体上では、強く深く。

現代人は、意識上での「ゆかし」ばかりを考える。
だから、わからない。
昔の人は、身体で「ゆかし」をみつめる。
例えば
ねびゆかむさまゆかしき人かなと目とまりたまふ(源氏物語)
今後、成長していくであろう(若紫の)姿を見ていきたい女性だな、と目がとまりになる、
みたいに。

漢字で書くと 「床し」

・・・なぜ床という漢字を当てたのか。

欲求の方向性。現代人は、思いが前方に向かっていくように感じる。

昔の人たちは、自分の氣は、常に下方へと向かっていると、感じていたのではあるまいか。しづんでいくように。
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2013
05.24

純真な贈り物

Category: 未分類
二二八 言葉の消える体験

先輩より、素敵なプレゼントをいただきました。

開く前


何かと思って開いてみると



こちら白鷹稽古場

白鷹稽古場を描いていただいたのでした。

「ようそこ、白鷹稽古場へ」 
               「ザッツ ヤマガタ!!」 
                           「オー!オー!」

 

それだけに留まりませんでした。
これぞ、稽古会 ? ! という希品も。

少女

心より感謝申し上げます。
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2013
04.20

世界は詩を詠っている

Category: 未分類
二二七 即興

詩情あふれる映画を観た。
「悲しみのミルク」
全編、祈りのような映像で進んでいく。


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2013
03.31

葛蛇玉

Category: 未分類
二二六 そこに居る

仙台市博物館に行ってきた。
すごかった。
驚いた。
伊藤若冲の「ぶどうの木」

budou

もっとすごいものがあった。
葛蛇玉
karasu to usagi

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2013
02.22

ひとつのおわり

Category: 未分類
二三五 落ち入る

室野井洋子さん

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2013
01.03

福笑ひ

Category: 未分類
二三四 笑ひの中から

犬が笑うと、怖い。
人が笑うと、なごむ。
魚が微笑むと、妖怪的。
人が微笑むと、人間的。

動物は怒り、悲しみの表情をするが、笑わない。
魚は無表情。決して笑わない。

人間が笑いを獲得する以前、笑いは畏れの象徴だった?

哀しいときに笑っている人。
悔しいときにも笑っている人。
日本人は真面目に笑う。
辛いときこそ、日本人は笑う。

日本(人)は笑ひの中から生まれてきたに違いない。

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