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2010
12.18

デポルターレ道

Category: 未分類
一九四 静謐な
 
続き

●スポーツの語源はラテン語でデポルターレっていうんだと。
「ポルターレ」は、それをしなければ生きていけない義務のことで、そこから「デ」する、つまり逃げる、ということなんだと。
簡単に言うと、気晴らしや骨休みのことなんだと。
それを積極的に転じさせて、悲しみを奪い去ること、という意味まで獲得したんだと。

●日本でスポーツは、競技、つまり誰かと競いあうっていうのが主流だべ。西洋にもそういう考えはあるんだけんど、元々の発想が違うみたい。
「コンテスト」や「コンペティション」という言葉には競技や大会っていう意味があるけんど、「コン」という接頭語は、人と一緒に、っていう意味だから、一緒に游ぶ、一緒に楽しむっていうのが基盤にあるんだと。
一緒に共鳴しあって互いにスポーツ体験を高めていくっていう発想が根底にあるんだと。
手段でなくて目的なんだと。

だから西洋では健康のためにスポーツをする、なんて発想全くない。もう生活の一部になっていて、スポーツは生きていくために無くてはならないものになってるんだと。

この自然発生的な感じ、尊重すべきだべ。


そういう視点で日本を眺めてみると、日本には、スポーツが自然発生した形跡はなし。
競技の原型になっている相撲は、神事で占いで、人が立ち入る場所ではなく、ただ祈り言の世界だし。
西洋のように人間を中心に考えて、悲しみを奪い去りたい、なんていう雰囲気も毛頭ない。
もし「悲しい」なんて口に出したとしても、恥ずかしいことだろうし、周りに鼻で笑われたべ。

言い換えれば、個人的な欲求を徹底的に排除したものが、日本の文化だった。
人以外。
人そのものではなく、あくまでも、人と人との間。
「人の間」が人間、という感覚が日本にはあったんだべ。
そして、今もある。
日本でのスポーツはあくまでも手段になっている。
じゃあ目的は何だってことだけんど。

楽しむこと、それ以外の目的って何だ。

それは人が消えることで体験できる、ある種の静謐さだべ。
厳しい集注感を持ってしか到達しえない心境。
その世界に向かって、日本人はスポーツをしているなだ。
だから、日本にはスポーツはなくてスポーツ道があるなだ。
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