--
--.--

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

2010
12.23

さん間

Category: 未分類
一九五 あいだ

続き

●午後の昼下がり、講師がいきなり言ったなよ。
「テキストにも載っていますように、今の子どもたちの基礎体力を育むために、圧倒的に足りないものがありますす。
それはサンマです。
食べる魚ではありませんよ。
漫才師でもありません。
三間、三つの間です。
ひとつめは体を動かす時間。
ふたつめは空間。
さいごは仲間。
この三つの間、それらが足りないということが子どもたちを運動不足へ向かわせていると言われています」

あいだ、だ。

眠たい頭が一気に覚醒した。



空間、空の間、何も無い容積
時間、時の間、流れのひととき
仲間、友だち同士の中で生まれる親密な世界、その一員

間接、間をとおって関わる
間尺、きちんとした長さ
間近、間が近づいてきている、もうすぐ
間無、まもなく
間違、間がずれてる

手間、自分のからだが、その対象に係わっていた時間や体験内容
合間、互いの息合わせ
隙間、風が通るほどの余裕
瞬間、まばたきほどの時間、あるいは人の一生
世間、浮世、生きている人たちの混沌
民間、ひとびとの社会
居間、家族が集まるところ、そこに客をも迎えうる
腰間、腰のあたり、腰骨でないところの腰

人間、人と人との間、またはその関係性の中で生きていける人


今の子供たちだけじゃねえな。
老若男女問わず、現代人には、あいだ、がとことん足りないした。

人はご飯を食べても人間にはなれません。
「あいだ」を食べて人間になるのです。



スポンサーサイト
Comment:0  Trackback:0
2010
12.18

デポルターレ道

Category: 未分類
一九四 静謐な
 
続き

●スポーツの語源はラテン語でデポルターレっていうんだと。
「ポルターレ」は、それをしなければ生きていけない義務のことで、そこから「デ」する、つまり逃げる、ということなんだと。
簡単に言うと、気晴らしや骨休みのことなんだと。
それを積極的に転じさせて、悲しみを奪い去ること、という意味まで獲得したんだと。

●日本でスポーツは、競技、つまり誰かと競いあうっていうのが主流だべ。西洋にもそういう考えはあるんだけんど、元々の発想が違うみたい。
「コンテスト」や「コンペティション」という言葉には競技や大会っていう意味があるけんど、「コン」という接頭語は、人と一緒に、っていう意味だから、一緒に游ぶ、一緒に楽しむっていうのが基盤にあるんだと。
一緒に共鳴しあって互いにスポーツ体験を高めていくっていう発想が根底にあるんだと。
手段でなくて目的なんだと。

だから西洋では健康のためにスポーツをする、なんて発想全くない。もう生活の一部になっていて、スポーツは生きていくために無くてはならないものになってるんだと。

この自然発生的な感じ、尊重すべきだべ。


そういう視点で日本を眺めてみると、日本には、スポーツが自然発生した形跡はなし。
競技の原型になっている相撲は、神事で占いで、人が立ち入る場所ではなく、ただ祈り言の世界だし。
西洋のように人間を中心に考えて、悲しみを奪い去りたい、なんていう雰囲気も毛頭ない。
もし「悲しい」なんて口に出したとしても、恥ずかしいことだろうし、周りに鼻で笑われたべ。

言い換えれば、個人的な欲求を徹底的に排除したものが、日本の文化だった。
人以外。
人そのものではなく、あくまでも、人と人との間。
「人の間」が人間、という感覚が日本にはあったんだべ。
そして、今もある。
日本でのスポーツはあくまでも手段になっている。
じゃあ目的は何だってことだけんど。

楽しむこと、それ以外の目的って何だ。

それは人が消えることで体験できる、ある種の静謐さだべ。
厳しい集注感を持ってしか到達しえない心境。
その世界に向かって、日本人はスポーツをしているなだ。
だから、日本にはスポーツはなくてスポーツ道があるなだ。
Comment:0  Trackback:0
2010
12.13

指導者の技

Category: 未分類
一九三 無意識のうちに共通点を見ている

なんの因果か、成り行きで、スポーツ少年団認定員講習会、なんつうものを受けるはめになったなよ。
面倒臭いなは。
後ろ向き気分でよ。
ところが、これが結構、面白えがった。
「現代のスポーツ指導観」というのが垣間見えてきた。

かいつまんでみっと。

●「指導者の視点」で大切なこと
子どもの現在の体力、成績、能力に目を奪われず、こどもたちが今どの地点にいて、今後どう成長していくのかという、現在進行しているもの、発達していこうとしているものを見つめることである。
なるほど。
●結果ではなく経過、これが大切である。
なるほど。
●「コーチ」という言葉の語源は「馬車」で、目的地まで送り届けることである。
なるほど。
●指導者の技、すなわちコーチングスキルとは、子どもたちの「自己分泌」を起こすように促すこと。
「自己分泌」とは子どもの中にある自発的な感覚。自分で話している声を自分で聞いている感覚。自分の動作を自分で感じている感覚。
●「自己分泌」が起こるのには指導者の同調力によるところが大きい。
同調力とは、相手との類似点を探す力のことである。
話を合わせる、話題を合わせる、興味を合わせる。
ひとは無意識のうちに人との共通点を探しているという。
その感覚を磨くだけで、子どもたちの体は受動体になり「聞く耳」を持ってしまう。
へえ、すごい。
●全ては子どもの中にある。指導者は待つだけでいい。
はあ。

こんなに時代が進んでいるとは思いませなんだ。
Comment:0  Trackback:0
back-to-top
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。