--
--.--

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

2010
05.21

筆一毛の革命

Category: 未分類
一六八 刺激から開放されることによって生まれるもの

筆ペンの先っぽから毛が一本、ヌーっと伸びてきて止まったなよ。
抜け落ちないなよ。
だからそのまま使ったなよ。

その一本だけで書いたのよ。
不思議な感じがしたなよ。

書いている実感がまったくないのに、文字がかってに現れるっていう感じなのよ。
徒手空拳で、文字だけが浮き上がってくるみたいな。

俺は思ったなよ。
今までは筆と紙の擦れ具合、その刺激感をたよりに字を書いったんだ。




話し変わって
アメリカで映画みてきた、という知人の話を聞いたな。
映画館に入ったものの英語が聞き取れなくて、ちんぷんかんぷんだったんだど。
んでも現地で観るっていうのは夢だったし。
最後までいたったど。
結局どうだったかっていうと
それがものすごく面白い映画だったなだど。
英語がわからなくてもどんどん画面に吸い込まれていったなだど。
冒険活劇で、逃亡生活の主人公がいろんな体験をする。
宗教問題もでてくる、言葉の伝わらない部族との交流、人間同士の深いつながり、心の機微、恋愛、家族の有り様。
まさに人間が生きていくうえで必要な課題を一身に引き受けたような、壮大でしかも繊細極まりない、人生のベスト3にはいるような映画だったなだど。

それで
日本に帰ってきてもう一回ちゃんと観るべ、と思って映画館に行ったなだど。
日本語でしっかり理解するべと揚々と出かけていったなだと。
だって意味もわかんないのにベスト3の映画だべ。
言葉がわかったらどれだけ面白いか。

そしたら何だかおかしいなだど。
内容が違っているような気がするなだど。
安っぽい感じもするなだど。
題名も主人公も場面もいっしょなのによ。

結局、ただのB級コメディ映画だったなだど。
おんなじ映画なのに、ただの妄想で、自分勝手に解釈していたんだと。
知人は自分のいい加減さにショックを受けたんだど。
俺は物語を勝手に作っていた。
アメリカで観た、俺の幻だった。

その話を聞いて、俺もショックを受けたな。
コイツの内面は物凄く豊かだ。
つまらない映画を巨大な芸術作品に変えてしまうほど凄い。



刺激に縛られなかったからできたことなだ。
そうでないとこんな体験できなかったなだ。

俺も筆ペンの先っぽ一毛で、刺激抜きの芸術を書き上げるとするべ。
そう固く誓ったは。
スポンサーサイト
Comment:0  Trackback:0
2010
05.11

澄みませんでは済みません

Category: 未分類
一六七 終わる、という感覚


「家の光」江戸しぐさの続きだす。

すみません、という言葉の話だす。


女が道で間違えて男の足を踏んづけたとき
「すみません」と謝る。
男は「いやいや、うっかりしていた。こっちこそすまねえ」
と謝り返す。

「すみません」「いや、すみません」
こんなふうにキャッチボールをする。


これが難を幸に変えるコツ。

難で出会って幸で別れる

江戸の粋。


「すみません」は、気が乱れて澄みません。罪の意識が残ってしまって心が澱んだまま澄みません、このままでは終わった感じがしません、済みません。
元々そういう意味らしいだす。

男が謝ったのは、気が散ったまま歩いていたので罪作りの種を蒔いてしまった。こちらの方こそ、澄んでいなかった。だから、澄みませんでしたってことらしいだす。


「すむ」は澄む、済む、住むとも同源。

気が澄んだら気が済む。

で、住むっていうと
人は死ぬまで自分の定住地を求めて彷徨うものらしいのだす。
ここ!って決めるときは、ここで死ぬ!って決めるときらしいだす。
終の棲家だす。
ここで終わるってことだす。
住むっていうのは、気が済むまで放浪したのちに、気が澄む処で、終わる、ってことだす。






Comment:0  Trackback:0
2010
05.08

多層の縁

Category: 未分類
一六六 重なる

今朝、テレビを眺めていたら「二重羽根の扇風機」っていうのをやってだった。

自然界の「そよ風」を再現するんだと。

二重羽根の扇風機二重羽根扇風機



「和っとこ」という番組


と、思ったら、「知っとこ」でした。




今月号の「家の光」を手にとったな。

「粋な江戸しぐさ」の特集をやってたった。


「袖すり合うも他生(多生)の縁」

ちょっとしたかかわりも、生まれる前からのめぐり合わせだ、っていう。道で見知らぬ人と袖がちょっと触れ合うようなささいなできごとでも、それは単なる偶然ではなくてすべて前世からの因縁によるっていう。今生ではさほど縁がないように見えても、前世では密に繋がりがあったかもっていう。

「袖すり合うも五百生の縁」
袖がすり合うというのは、五百回も生まれ変わる間の、何万年もの間の、たった一度の偶然であるっていうこと。

それを前提に、江戸人は他人と付き合う楽しみを見い出していた。そんな特集だったな。

粋、だなし。



話しかわって、扇子と団扇、どっちの風が涼しいか?


俺は扇子の方が涼しく感じるな。

なんでだべ?


折り目がいっぱいあって、風が何層も重なるからでないべか。


たくさん重なると、その中の一つが、有り難くなってくるし。





Comment:0  Trackback:0
2010
05.06

小説を読んでよかったと思うとき、実は

Category: 未分類
一六五 言語化すると

画家のクラムスコイに「瞑想する人」という傑作がある。冬の森の道でボロをまとった百姓がたった一人、もの思いにふけっている。決して考えているのではなく「瞑想している」のだ。もし誰かが彼の背中をトンと突きでもしたら、夢から覚めたかのように相手の顔を見るだろう。しかし何を考えていたのかと問われても、たぶん何も思い出せない。瞑想中に抱いていた彼の「感覚体験」は、心の中深くに仕舞いこんで、たくわえられていくだけである。彼にとってはその感覚心象こそ大事なのであり、彼はおそらくそれらをほんの少しも意識しないで貯めていくのである。それがなんのためかなど無論わかっていない。多くの年月がたち、これらの「感覚体験」を貯め込んだあげく、ふいに彼は全てを捨てて放浪と修行のためにエルサレムに旅立ったり、もしかすると故郷の村を突然焼き払ったり、ことによるとその二つを同時に起こしたりするのかもしれない。民衆の中にはかなりの数の瞑想者がいる。

「カラマーゾフの兄弟」の一節

本を読むと
一、いままで言語化してこなかった自分の「感覚体験」とぴったりした文章に出会うことがある。
二、その深層「感覚」が浮き上がってきたとき、ある「快感」が生まれる。
三、しかし、明確化してしまったため、深層「感覚」はある意味、干あがってしまう。
四、つまり、貯えてきた「感覚」は、そこで終止符を打つ。
五、その結果、全てを捨てて放浪と修行のためにエルサレムに旅立ったり、もしかすると故郷の村を突然焼き払ったり、ことによるとその二つを同時に起こしたりする可能性は、壊滅する。






更に、文章を読んだ印象を具象化すると、もっと明確に何かを失う。














クラムスコイ「瞑想する人」

瞑想する人

Comment:1  Trackback:0
back-to-top
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。