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2009
02.27

事実と型

Category: 未分類
三十 言葉にも型がある

糸桜散りつつ夜々のもつれかな

これは故・加藤三七子さんの句なんだ。
激しい風雨の続いた夜が明けて外に出てみると、一片も散っていない桜の木が目に入った。加藤さんは驚いたんだと。こんな可憐な花びらなのに、なんと強かな生命力だって。
早速、作句を試みたんだ。
575という定形に入れてみた。

糸桜散らざる夜々のもつれかな

しかし何かが違う。どこかに不満が残る。
しばらく悶悶とする。
感動したのは、確かに散らざる桜に対してだ。それは事実なんだ。
けんども575で、ピタッと定まらねぇんだ。
迷って、時間だけが過ぎでく。
そして、あるときフッと気づくんだ。
自分は風雨にもまれる情念の桜が描きたかったんだって。
んだから、実際の桜は散ってはいなかったけんど、散りつつ、としたほうがいい。その方がぴったりする。

575の定形が強制的に事実を変形させたのかもしんにぇな。
もっと他に美しい旋律があるって。もっと深く掘り下げられるって。もっと大切なものがあるって。

俳句の型に入ると、言葉って変遷するんだな。その人からはがれ、自立し始めるんだな。もう加藤さんが所有しった句でなくて、型から生まれた、新たな生き物なんだな。

型って、堅苦しくないな。


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2009
02.26

問ひとつ答は宇宙

Category: 未分類
二十九 型とは何かと問う 

想像力を使って動作するときは、動きのきっかけとか誘い水、原動力にはなるべな。
悪いことではない。
けど、想像力ばかりに頼っていると、頭が疲れる、首がこわばる、肩がこる。
からだが何かしらの代償を支払う羽目になる。
想像ばっかりじゃ、所詮お遊び。身に付かない。
高みを望めないってことだ。
何か頭を使うこと以外のことをしなきゃなんない。

何があるべ。

動法にとって不可欠で、日本人がこよなく愛したもの。



だな。

型に入る、ということ。

型に入れば、頭を使う必要がなくなる。
気持ちで一生懸命しなくとも、ピタッと止まれる。
今までここで稽古してきたことが、いとも簡単にできる。

型の可能性は未知数よ。

でも、そもそも型って何なのか?
何のためにあるのか?

所作を美しくするためとか基本を学ぶためとかそんな浅薄なことのために存在しているんじゃないべね。

問一つ答は宇宙冬木立

これは俺の俳句仲間が作った句だ。70過ぎの人だけども。
型とは何か?という問いをしたとき、この句が浮かんだんだなぁ。
答えは宇宙。
つまり、広くて深くて遠い、宇宙の彼方にでも行ってしまったかのような感覚を伴う答えがあるかもしれないってこと。
答えなんて無数に存在するものなんだろうけど、自分が導き出した答えが、そんな果てしない感じならいいなぁ。



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2009
02.24

人の真ん中

Category: 未分類
二十八 からだの中で存在感が増してくる処を見つける 

ふりかえれば、今月は真ん中ばっかりだったなぁ。

木の真ん中は動かない、死ぬまでおんなじ場所にある。人も同じ。そう前に書いたけんど、今回でどうにか、そこにたどりつけそうだべ。
かなり常識外れの考えだから、遠回りになったけんど。

でもとにかく、自分は真ん中、という視点に立ってみる。
そっから何かが始まるべ。

自分が歩くのは、目的の場所を自分のところに近づける所作である。
前に進んでいるのではなく、実は地面を後ろに回している。

立ったり座ったりするときも、そう。
立つときは床が下降するように蹴りこんでいる。
座るときは床が浮き上がるように押し込む力を抜いている。

全ての動作は、周囲を動かすためにある。

地球と自分。どうしても大きい方を基準にしてしまうけんど、ここは踏ん張って、自分に置く。

半信半疑、くらいで十分。
とにかくそう見るつもりになる。

自分にへばり付いてた観念をあやふやにする。動揺させる。そうすると何かが震えだす。
そっから何かが始まるべ。


動きながらも、自分の方が真ん中っていう感じが保てると、からだの中の何処かが、震えながら存在感を増してくる。
そこが、人の真ん中。

そこは自分が生まれてから一回も動いたことのないとこ。
そこに集注すれば、天地逆転の感覚になる、そんな場所。
木でいえば種のあった場所。


からだの中の、どこだべね。


俺は臍の下あたりだと見当つけてたんだけど。
わかんねよ。

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2009
02.23

散歩動法・追試

Category: 未分類
二十七 固定観念をはずす

散歩動法、やってみたか?
ちいと難しいべか。
難しい人には、追試、考えたから。

今度はちょこっと簡単、かな?
だけど想像力をフルに使わねとな。

まず、地面を歩くべ。これはおんなじだ。

こんときによ、ちょっと想像しなきゃいけねぇ。
地面がベルトコンベアーみたいに、こっちに回ってくるって。

アスレチック・クラブにウォーキング・マシーンってあるべ。
地面が、その、大っきいバージョンだと思うんだ。
自分が歩くと、地面が勝手に後ろに動くマシーンだって。

ガラス張りのアスレチッククラブを見てると、その場で歩いて、何面白いんだべって思うけども、地球規模のアスレチッククラブって想像して道を歩けば、何となく楽しいべ。

ウォーキングマシーンはベルトが回るけれど道は回らねえから想像できねえっていう人は、遠くの山とか夜なら月を見ながら歩くんだ。
遠くのものなら歩いても、俺らといっしょに付いてくる。景色のように後ろに流れない。

そうやって、止まっているって思えるものに手伝ってもらうんだ。

そしてとにかく、歩く。ひたすら歩く。
自分は止まっている。真ん中だって感じるまでよ。


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2009
02.22

散歩動法

Category: 未分類
二十六 天地逆転の感覚を知る 

こんなことをやってみるべ。

外に出て、散歩する。
顔を上げ、前面を一様に見すえて。
どこにも焦点をしぼらないで、景色全部を、くまなく均等に見るつもりで。
大画面テレビでも見ているように、だな。

歩く速さは一様に。
吐く息ひとつで、すーっとすべるように。
頭をピョコピョコ上下させてはいけない。
あくまで一定の速度、一定の流れにのって。

しばらく続けている。それを兎に角続ける。

すると、あるときある瞬間、景色の方がこちらへ向かってくるように感じる。
ガーーーとこっちに向かって迫ってくる。

こっちが歩いているのに、景色が動いてやってくる。

雪の降る空を仰いだときに地面もろとも上っていく感じの、逆バージョン。天地逆転感覚。

時間と集注力が結構必要だけれど、それでも必ずやってくる。


こっちから歩いていくときは地動説。
それが景色が向こうからやってきてくれる天動説に様変わり。

動いている本人が、「自分は止まっていて、風景がどんどん変貌していくのをただ眺めている」、としか思えない、そういう体験。

世界がガガガッと、やってくる。周りが勝手に動いてくれる。動きながら、自分の中に基準ができる。自分が真ん中になる。


一度体験したら、病みつきになりまする。

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2009
02.17

地動説?

Category: 未分類
二十五 共に踊っている感覚をつかむ  

前回、真ん中は動かないって話したけども、その延長線で天動説、地動説をちょこっと考えてみっぺ。

まず今いるところから。
この場所。ここは回っているか?
回ってる感じはしねぇ。動いていない。
だからここは真ん中。
太陽も星も、ここの周りを回る。
となると、天動説は正しい、ということになるなぁ。

それに比べて地動説は、実感がないんだよなぁ。地球は回っているっていっても、当の人間が感じないんだから、説得力ないよなぁ。
太陽が出てくるときに「東の方にこの地面が埋まっていく」なんて、どう転がっても思えないしなぁ。


しかしよ、これは地球と太陽との話だ。規模がでっかすぎる。
もう少し小っちゃく、身の周りぐらいに範囲を狭めれば、結構、地動説も当てはまるんじゃないんだべか。

例えば、自分の家あるべ。帰る家。人はここを中心に生活している。朝、家を出て仕事場に行ったりするけど、結局家に戻る。寄り道したりするけれども、また家に戻る。
俺らの行動範囲はなんだかんだ言っても、家中心だした。
人は家の周りを回っている。
例えば、人間関係でもあるべ。できれば人に自分の周りを回って欲しいけど、気が付いたら、お客の周りを、師の周りを、女房の周りを、主義主張の周りを、金科玉条の周りを、常識の周りを、自分が回っている。
現実はこうだ。
真ん中が他にある。

人って動かない安心感を外に求めてしまうのかもね。
それって、なんかさびしいな。

遊園地のコーヒーカップ。ハンドルを回すと、こっちが回る。真ん中はハンドル。だから俺らはその周りをぐるぐる回る。
その場でぐるぐる回ると、最初は楽しいかもしれない。けどもすぐ飽きる。
さびしくなる。


でもな、いったん会場もろとも回り始めると全然違う世界になるんだよな。自分も回る、隣も回る、場も回る。全部回る。するととっても楽しくなる。
盆踊りもみんなで踊る。その中に参加する。なんか楽しい。
自分も動く、みんなも動く、場も動く。
みんな動いてどこにも真ん中がない。
そんときは、何か、こう、生きている歓びを体験している。

これって何説?

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2009
02.15

動かない

Category: 未分類
二十四 止まる練習をする

仰向けに寝ている赤ちゃんを見ると、真ん中だなぁって思う。真ん中を持っているんだよなぁ。
ひっくり返った天道虫や亀にそっくりだ。
赤ちゃんも天道虫も亀も動けない。その場に釘付け。

真ん中は動かないもんだべ。

風車も竹とんぼも独楽も真ん中は止まっている。台風の目も無風。
動いているのは周りだけ。
酔っ払いも、飲みすぎで目が回り始めたら、その場にへたり込むべ。動かなくなる。
遊園地のコーヒーカップも、止まっているハンドルを回して、こっちが動く。

止まっている、っていうのは、真ん中が出ている条件になるべな。
だとすると、中心を出して動くなんてありえないな。出ればビタっと止まるはずだから。


一日五分、正座してビタッと止まる練習をしてみるべ。
自分の周りを何かが回り始めるかもよ。


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2009
02.13

木の真ん中

Category: 未分類
二十三 真ん中から伸びる(動かない真ん中を動かすには)

真ん中っていう言葉を簡単に使ってきたけんど、からだを動かすときの、きっと最重要の感覚だべねぇ。

でもよ、実は、からだの真ん中を動かすなんて本当にできるんだべかって思ってるんだ。

話はこの前の日曜日にさかのぼりますょ。
仙台に行くために朝6時に家を出たんだょ。氷点下5度。道路は樹氷の並木道となっていたなぁ。

樹氷って見たことあっか?そりゃ奇麗だぞぉ。
まるで白い毛細血管だ。その純白は大気を浄化しているようだった。

何かに似ているなあ、と思った。
そうか根っこだ。木の根っこに似ている。大空に向かって細かく伸びている枝は、土の中を無数に広がっている根っこにそっくりだ。
木は、上にも下にも同じように伸びてんだなあ。

ふと、考えた。
木の真ん中ってどこだ。
もちろん、上と下の中間、土の生え際辺りなのだろうけど。そこいら辺に真ん中はあるのだろう。
で、そこいら辺には何があるのだろう。
思い巡らせた。
種だ。種があった場所。それが木の真ん中なんじゃないだろうか。

すべては種から始まったはず。根っこも幹も、そっから伸びだ。だから真ん中は、ちょうど土の浅い部分、種のあった場所、生え際辺りなんだろう。

木の真ん中は動かない。木は真ん中から伸びて大きくなっていくから、真ん中は動かない。動いたためしがない。自らの真ん中を動かすこともできない。


けれども木は真ん中を動かすんだなあ。

新しい種をつくることで。
自らの子孫を、他の地へ撒くことで、真ん中を移動させるんだべぇ。
つまり木は、自分のできない真ん中移動を、次世代へ託す、という形で行なってるじゃないのか。


人間の真ん中も同じような気がするんだなぁ。

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2009
02.10

日本版エアロビクス

Category: 未分類
二十二 からだの根っこで動く

昨日テレビで、ニューヨークで流行りの新しいエアロビクスっていうものをやってたよ。ハリウッド・スターもやってるんだって。短時間で効果抜群とのことだ。
どういうものかっていうと以外に簡単で、手と足にナイロンのストッキングを巻き付けて、それでエアロビクスをするだけなのよ。
けれども腿を上げたり手を振り回したりジャンプしたりはしない。全部床の上で滑らしてやるんだ。脚伸ばしたりねじったり、手を曲げたり前後させたり、それら全部だょ。
日本人レポーターも挑戦してたよ。最初はできなくて、滑ることから始めましょうって感じだったけども、そこは日本人だねぇ。すぐに「あ、これは雑巾がけの感じでやればいいんですね」ってコツをつかんでた。
インストラクターが「普通のエアロビクスでは2時間の運動量が、これをつけるとたったの40分で済むんです(もちろん吹き替え)」と言うと「そうですね、結構きついです。忙しい人には最適ですね」ってレポーターは玉のような汗を流してたよ。
すべるっていうのは大変なことなんだって画面から伝わってきたなぁ。

早速、家のストッキングを拝借して、やってみた。
なるほど、こりゃ結構な運動量だ。なかなか、いいかもしんない。
手を前に滑らせながら伸ばすだけでも、体重がのっかったらもう止まれない。足も踏ん張れないからズルンとなる。普段しているからだの使い方が通用しない。
レポーターが戸惑っていたのはこんな感じだったんだな。

からだを思うように動かすにはどうすればいいんだべ。
根っこの方だ。
手の先から腕の付け根の方に集注を切り変える。すると途端に楽になる。注意が根っこの方に向けられるだけで、軽くなる。体の中へ中へと緊張が集約される感じがして、そしてどんどんからだの真ん中が・・・できあがってくるような、妙な満足感が生まれたよ。

そういえば思い出した。俺の子どもたちも小っちゃい頃、こんな遊びをよくしていたな。
四つんばいになって、手足を滑らせて、腹をべちゃって付く遊び。
何かにつかまって立っているときも、わざと足をズズズーっと滑らせて尻もちをつく。うまい具合にお尻がつくから痛くない。ケケケと笑うだけ。
スムーズにすべっていけば怪我はしない。ずっと地面にくっついているわけだからよ。

全身油だらけで立っているとイメージすると小っちゃい頃に近づけるかもな。


摺り足、雑巾がけ、箸だってすべるように漆まで塗っている。日本人は普段からすべるエクササイズをしていたんだねぇ。そりゃあ、からだは鍛えられたべなぁ。エアロビクス40分どころじゃないね。

このストッキング・エアロビクスが日本に上陸したら、逆輸入って言うんだべかねぇ。

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2009
02.09

「立つ」という心象

Category: 未分類
二十一 動作に潜む心象を体験する

動法というのは古(いにしえ)の日本人が愛していた動作法だ。
それはまだ、人の品格と体の有様が結びついていた時代、人の内面を表現するのに身体言葉を使っていた時代のことさ。
目が高い、目が利く、目がない、目に障る、腰が入る、腰が低い、腹を据える、腹黒い、身が入る、身を削る、身に沁みる、骨を折る、骨(こつ)を掴む・・・
そういう人たちが捉えていた体の動作というのは、空間を移動するという意味だけではないんだべね。
効率性や利便性も動作の中には備えられていたかもしれないけど、それ以前に人々が大切にしていたものが動作の中には潜んでたんだべ。なにせ自分の身のこなし、立ち振る舞いがそのまんま性格診断、品定めになってしまう時代だったんだから。

そこでちょっと考えてみっつぉ。
古人が 「立つ」 という言葉を使うときには、どういう心象体験があったんだべ。

立つ、という言葉は自然現象が現れ出でたとき、よく使われった。
霧が立つ、虹が立つ、風が立つ、波が立つ、泡が立つ、雨が立つ(夕立)、季節の到来を感じるときも春が立つ(立春)をつかったかんな。
いままでなかったものが存在新たに出現するとき、総じて、たつ、という言葉を使ってだな。
家がたつ、声をたてる、噂がたつ。
時間というものを改めて実感したとき、時がたったんだ、と悟るべ。
他を圧倒する存在感あるものに対しては、目だつ、と言うし。
役立つ、というのは、その機能が十分発揮されたときのことだな。
茶をたてる、というときも、茶という存在をお点前を通して浮かび上らせる、という意味なんだべなぁ。

ということは、凧が舞い上がるように立つ、と前回のとき書いたけれども、案外、古人の心象に近いのかもしんない。
風が立つ、風が吹く、風の存在を実感しながら立つ。なかなかのもんかもな。


残る問題は、立つのが風じゃなくで自分自身である、ということだな。

人が立つというときは、何らかの決心をしていることが多いな。立候補を決めたときも、選挙に立つ、って言うし、何か特別な行動を起こすときに、さあ、みんな、立ち上がるべ!って言うし。

立つ、というのは、己が何かを起こすまさにその瞬間の心象体験を言い表していたんだべねぇ。



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